カテゴリ:読書日記( 17 )
書評の放つ光「水の匂いがするようだ」
書評自体が強くメッセージを発していることがある。井伏鱒二論を書いた野崎歓、その「水の匂いがするようだ-井伏鱒二の方へ-」の書評を書いた佐伯一麦。その3人の心模様の重なりに揺すぶられる。前にも高村光太郎/吉本隆明/鹿島茂の重ね合わせに批評の切結び方を見たのだったが。
f0202518_14391190.jpg
副題に「井伏鱒二のほうへ」としたときにすでに、著者が仏文の世界の人だな、プルースト好きだな、と直観する。そして、ドリトル先生とともに子供時代を過ごした人だろうなと。

個人的な体験を言えば、井伏鱒二ほど声に出して繰り返し読んだ本はない。娘が幼子であった頃、本当にドリトル先生が好きで、毎晩毎晩ドリトル先生の冒険談をせがんだのだった。1冊で終わればいい方で、目をぱっちり開けてなかなか眠らなかった。2年間だろうか、3年間だろうか、自分で読めるようになるまで。本当に翻訳の域を超えていたと思う。「そうさな…」という口癖がよみがえる。そして幼児に哲学者のような言葉を吐かせる。「みじかいおはなしは、おもしろくない!」
f0202518_10275322.jpg
注文すると次の日には本が届いた。カバー・表紙・見返し・扉と連続する紙の諧調の微妙な重なり、控えめに泳ぐ文字など装丁も香り高く、ずっとそばに置きたい本。
10巻を超すドリトル先生シリーズが少年少女文学全集としてずらり並んでいる国は稀だそうな。まことに井伏鱒二という翻訳者を得て日本の子供たちは幸せである。(礼)

読書日記
2018.1013 書評の放つ光「水の匂いがするようだ」
2018.0521 自分勝手な保険をかける⁻武満徹全集
2018.0211 ジャン・コクトーのこと


2018.0124 すぐに眠くなるおまじない
2017.1121 文字に刻む音⁻蘇東坡によせて-
2017.0718 息(いぎ)をするように
2017.0203 猫いよいよ佳境に入る
2016.0716 裏返された座布団-catside down-
2016.0616 猫とその後
2016.0326 たどたどしい言葉で


2016.0305 ナタリア・ギンスブルグを読む

2016.0221 高村薫「空海」を読む
2015.1109 干し柿のすだれ
2015.1106 2人の敬愛する先達
2015.0427 本好きの本棚
2012.0401 吉本隆明を悼む

[PR]
by trmt-ken | 2018-10-13 14:54 | 読書日記 | Comments(0)
自分勝手な保険をかける
手前勝手な保険をかけている。病気になった時に読む本を貯めること。
f0202518_21254952.jpg
貧乏症なので、全くの健康時に3・4日かかる本を読むのはなぜか気が引ける。少し痛い所があったり、熱っぽい時にごろごろして、食事もとらずに本に包まれているのがいい。痛みすら甘美に思える。ここ数日その至福の時を過ごした。お付き合いいただいたのは武満徹。作曲家は数学者に似て近寄りがたかったが、武満氏は特別な音楽教育は受けず独学とのこと‥‥初めの一歩から度肝を抜かれる。

西洋と東洋の2項対立でなく、バリ島やアフリカや、思考の成り立ちからちがう音の風土に‥‥うなる(痛みも忘れて)。そしてフィールドワーク中の文化人類学者・川田順三と交わされた豊穣な往復書簡。アフリカとパリと日本を行き来する書簡の書かれた時は、くしくも、私がパリで苦闘していた時に重なる。フィールドノートに場所と日付けを記していたことが今、有難い。
f0202518_21410300.jpg
第5巻の詳細な年譜にはパリ公演の記録もあった。1978年10月17日ソルボンヌの礼拝堂における「比叡山延暦寺の声明」公演。その時、武満徹氏は中央のドームの柱の角に、間をおいて響く鐘の余韻の中におられた。音は振動として感じられた。時空そのもののような。

なぜか僧侶も楽器も思い出さない。音楽家のひっそり頬杖をついた姿のみ記憶のスポットライトの中に残る。
f0202518_21411320.jpg
簡易に持ち運べない音、抽象でなく存在としての音を求めた軌跡。延暦寺の木造伽藍と集中式プランの石のドームの空間では全く別の響きだったはずだ。

さて、次の病気の時はなんとしよう。(礼)

[PR]
by trmt-ken | 2018-05-21 21:43 | 読書日記 | Comments(0)
ジャン・コクトーのこと
本日の読書欄に、コクトーの「恐るべき子供たち-アンファン・テリブル-」のことが載っており、あっと思った。不可解さ、それにも関わらず透明な哀しさに満ち、不思議な余韻がある。なぜだろうと、ずっと疑問だった・・・。20歳の親友ラディゲを亡くし、コクトー自身アヘン中毒に、そして2度目の入院中に書かれたのがこの小説とか。死者へのラブレターか。
f0202518_13255981.jpg

コクトーによる表紙絵(1958年ポケット版):外と中が裏返った世界。そして、なぜか左が姉、右が弟、合体して怪物となる。
f0202518_21271049.jpg


書かれた内容が問題ではない。筋などもうどうでもよい。ただ、こうした切々とした感覚を生み出せるというのが文学の本質かと思う。そして、心に引っかかる物語が、なぜか夭折した人へのメッセージのように書かれていることがままある。あるいは、その人を書き留めておきたいという願い。そうしないと本当に消えてしまうという思い。それが切ない。

大人にならないピーター・パン。陰に亡くなった少年の面影。
そして、モンテーニュの-随想録エセ-。夭折した友ラ・ボエシーとの生涯をかけた魂の交感とも読める。
( 礼)

[PR]
by trmt-ken | 2018-02-11 21:28 | 読書日記 | Comments(0)
「吉本隆明1968」鹿島茂-重なりにみえてくるもの-
批評とは自分をさらすしんどい仕事だ。

高村光太郎の詩をまな板に載せる吉本隆明、その吉本を読み解く鹿島茂。それぞれの出生・思想に絡めながら、批評そのものが対話であり自己表出となる。高村・吉本・鹿島の重ね合わせが輻輳していく過程は、3重奏にも似て一つの文学の形式になっているように思う。

渋江抽斎を書いた鴎外は、きっと「吾輩は猫である」の漱石を愛していたに違いない。表向きは対照的でも、奇天烈な面々が出没する知識人家庭の日常は奇妙に通底している。「抽斎」を読んでいる間中、私の内部では抽斎・鴎外・漱石が重なり合ってこだましていた。・・・小説しかり。

ナタリア・ギンスブルグの「ある家族の会話」を須賀敦子さんが訳出しようと決めたとき、個性豊かな家族に深く共感したのだろう。中でも頑固なナタリアの父と、「渋江抽斎」を勧めた須賀さんの父上。須賀敦子さんが訳したのでなかったら、私も手に取らなかったかもしれない・・・翻訳しかり。自己表出が控えられているにせよにじみ出てくるものがある。そうした重ね合わせが、自らの内部と呼応するときが本を読むよろこび。無口であったわが父親を思い出しながら。

本を整理していたら同じ本が3冊出てきた。吉本の「擬制の終焉」。寺本のと、私のと、父のと。1968年はそういう時代だった。
f0202518_18083506.jpg

安部宏「ワイングラス」で生じた干渉

そして翻って、ものの世界でも、自分の内部と共振する何かをみつけると、凍り付いて、そしておずおずと手をのばしたくなる。ほとんど触覚。それが会話。(礼)
f0202518_18085165.jpg

白井晟一「阿難」
f0202518_11344908.jpg
父の蔵書に自分のと同じものを見つけた

読書日記

2018.0203「吉本隆明1968」鹿島茂-重なりにみえてくるもの

2018.0124すぐに眠くなるおまじない「聖ベネディクトの戒律」

2017.1121文字に刻む音-蘇東坡によせて

2017.0718息(いぎ)をするように

2017.0203猫いよいよ佳境に入る

2016.0716裏返された座布団-catside down-

2016.0616.猫その後

2016.0326たどたどしい言葉で「ライムギ畑でつかまえて」

2016.0305


2016.0221高村薫「空海」を読む

2015.1109干し柿のすだれ

2015.1106

2015.0427本好きの本棚

2012.0401吉本隆明を悼む


[PR]
by trmt-ken | 2018-02-03 18:15 | 読書日記 | Comments(0)
すぐに眠くなるおまじない
枕元にうず高く本を積んでいる。なるべく難しげな哲学や宗教の本など。たいていすぐに眠れるが、一方眠りの中まで深く心に残ることもある。そんな一冊。DOOR さんにて入手した「聖ベネディクトの戒律」。
f0202518_21233031.jpg

まず、造本がいい。活字が典雅で数字まで美しい。印刷・製本は精興社。やっぱり。ざわざわした本に囲まれていると気持ちがあれる。置いてあるだけ、背表紙だけ、枕元にあるだけでも安らぐ本がいい。

そして内容。ローマ時代までの市民や貴族の文化は、実は奴隷制度の労働に支えられていた。その「労働」を喜びとして、また信仰へ至る道としてとらえ直した。それは大変な改革といえる。

今の時代にも言える真実ではないか。喜びを持って仕事をしているか。弱い立場の人に、過酷な仕事を押し付けてはいないか。おいしい所だけを味わおうとすると、見えないところで病みはじめる。
f0202518_09445292.jpg
戒律写本(オックスフォード写本ハットン48:8世紀)

ところで、DOOR の店主高橋香苗さんは、だれがどのような本を買っていったかを覚えておられるようなのだ。恐るべし。

(礼)

[PR]
by trmt-ken | 2018-01-24 13:27 | 読書日記 | Comments(0)
文字に刻む音-蘇東坡によせて-
蘇東坡の詩は、重なる音の響きが心に残る。

鼓闐闐(てんてん)にはじまり、水潺潺(せんせん)に終わる詩。どちらも擬声語。旃、遠、邊、見、川、煙と脚韻を踏む旅立ちの歌。
如走馬で始まり如飛鳥で終わる詩。繚繞(りょうじょう:まつわりめぐること)、縹緲(ひょうびょう:遠方にかすかに見えるさま)畳韻を踏み長江の船旅をうたう。底を流れる杜甫の調べ。糸偏にからまるように。
滾滾(こんこん:湧き返って流れるさま)としてとうたう時、ここでも遠く杜甫を響かせる。

別の発見もある。蝌蚪(かと:オタマジャクシ)、耆耇(きこう:たのもしい老臣)、鼓鼙(こへい:馬上で打つ太鼓)と部分を同じくする文字が続く。これはとても偶然とは思えない。(検索しても出てこない漢字もあった)

繰り返しの音はあたかも鼓動のようで。そして、ふと振り返れば、季節を大事にする日本の歌は、四季の巡りをほとんど祈りのように唱えたのではないか。同じようにうたった歌人と唱和しているのではないか。昔、学校で詩歌を習う時、季語とか枕詞は意味がないように扱われてきたが、そんなことはないと思う。言葉の重なりや遊びにこそ、託すことのできる思いもある。言葉を数珠のように手繰りながら。
f0202518_21361244.jpg

蘇東坡:黄州寒食二首:中央公論社書道芸術より:
長江が増水して戸口から流れ込んで来そうなことを記すあたり。

「東坡」という号自身、 白居易の詩から採ったもの。王義之・顔真卿が文字の血肉となり、また敬愛する先人の調べを糧として。
(礼)

[PR]
by trmt-ken | 2017-11-21 21:54 | 読書日記 | Comments(0)
息(いぎ)をするように
定期的に5時間ほどの汽車の旅をする。今回の旅の友は「The Secret Garden」。子供の頃読んだ本をもう一度ゆっくりと原語で楽しむ。子供の時には気づかなかった、たくさんのこと・・・。

重要なところで言葉が標準語からヨークシャなまりになる。ほとばしる本音の叫び。そういえば、チャタレイ夫人もそうだった。いきものに触れたときにあふれ出る「不思議な感覚」も共通して。

Wick・・・息(いぎ)してる*。いきている。呼吸と生命が同じことだ。(*猪熊葉子訳-福音館書店-による)
Wutherin・・・荒れ狂うムーアは「嵐が丘」へとつながる感覚。風土を「聞く」ため本をひらくのではないかとさえ思われて。
f0202518_20342071.jpg


それから・・・たくさんの象徴性。なぜディコンが葦笛をもって登場するか、なぜディコンの母親が青いマントを着て現れるか、金のラッパの日、・・・大人になってあらためて子供の世界におさまりきらぬ豊かさに瞠目する。
f0202518_20341479.jpg

実は一度取り寄せに失敗したのだった。妙に安価だなと思ったら、ペラペラの「あらすじ」のような本が届いた。子供の本のあらすじを知ってどうなるの。宝物は細部やちょっとした言葉遣いにこそ。

そして言葉を駆使して表現するのが文学ならば、建築はかたちを通して考えるしごとだと思うのだ。力や風や色や肌触りを胸いっぱいに吸い込んで。息(いぎ)をするように、風土に向かって網を投げるように。
(礼)

[PR]
by trmt-ken | 2017-07-18 19:52 | 読書日記 | Comments(0)
猫いよいよ佳境に入る
新聞連載の「吾輩は猫である」がいよいよ佳境に入る。11章、奇天烈な面々がそろう中での寒月君のアリア。
f0202518_15122786.jpg
思えば、漱石との出会いは、小学3年生の時のお話の時間にさかのぼる。毎朝30分、南総里見八犬伝、クオレ、レミゼラブルなどの一節を担任の先生が読んでくださった。その中に猫を主人公にしたお話があって、家に帰ってみたら、その本が、最も大事そうなガラス入りの本棚の上段にずらりと並んでいた。

朱と緑の布張りで、箱入りで、しかしルビがふってあり小学生にも読むことができた。坊ちゃんはその日のうちに読み、猫は少し苦戦した。…自分を猫と思わない猫同様、子供とは思っていない生意気な小学生の一丁上がり。それから何度読み返したことだろう。何度笑ったことだろう。限りない感謝を込めて、漱石先生ありがとう。
f0202518_15123968.jpg
落語のような活きの良さがいのち。週末でぶちぶち途切れないことを願う。

(礼)

[PR]
by trmt-ken | 2017-02-03 20:31 | 読書日記 | Comments(0)
裏返された座布団-catside down-
朝日新聞連載中の吾輩は金田邸の偵察を終えて鈴木君を待ち構える。
f0202518_1448240.jpg
来客用座布団にすまして鎮座する猫大明神。一瞬ひるむ金鎖の鈴木君とにらみ合い。ご主人がやってきて猫をつまみだし、ようやく鈴木君座布団を裏返して-turned it catside down-居場所を確保。翻訳者に上げたい座布団一枚春うらら。『ⅠAm a Cat-Ⅱ』より
f0202518_15112182.jpg
思うに、IamがIAmであるところに苦心がみえる。
(礼)

[PR]
by trmt-ken | 2016-07-16 14:59 | 読書日記 | Comments(0)
猫とその後
朝日新聞に『吾輩は猫である』が復刻連載されている。何度も何度も読んだはずなのに、また新たな発見がある。そしてついその先を読みたくなり、大病時(!)のために取ってあった「Ⅰ am a cat」まで引っ張り出す。これなら、どんなにしんどい時でも読めるだろうと。だけど手術後だったら、笑ったら痛いだろうな。
f0202518_9301866.jpg
-はじめましてMintChuChuの猫です。名前はあります。-


原文のすごいところは会話。言葉使いの差だけで、人物特定の野暮なしに会話が進む。翻訳者泣かせだろうなあ。第一、タイトルからして「吾輩」のおかしみは表現不能と訳者がハナからギブアップ。「大島紬に古渡更紗の重ね」は英語版ではあっさりと「上等の絹」でおしまい。ここらでしみじみ日本に生まれた幸せを思う。しかしながら、迷亭氏をculture-vulture Waverhouseと呼ぶなどは座布団1枚。
白眉というべきは、繰り返しのおかしさ。聞くほうも、しゃべるほうも根尽き果てて、省略できたらそれは誠に好都合。こんな文学が古今東西あっただろうか、と嘆息とともに考える。終盤の「西日かんかん」の場面。せめてそのあたり、週末中断にならぬ勢いで連載してほしいです。
f0202518_932075.jpg
- 鼻子とくしゃみではっけよい -

新聞連載では、現在鼻子夫人が出張ってきている場面ですが、イメージは浮世絵のそれも写楽のような、カギ鼻の目の吊り上がった顔が思い浮かぶ。落語のような展開といい、江戸文化を強く意識しているのではなかろうか。
f0202518_938058.jpg
-LISAの猫 -


(礼)

[PR]
by trmt-ken | 2016-06-16 09:43 | 読書日記 | Comments(0)