「吉本隆明1968」鹿島茂-重なりにみえてくるもの-
批評とは自分をさらすしんどい仕事だ。

高村光太郎の詩をまな板に載せる吉本隆明、その吉本を読み解く鹿島茂。それぞれの出生・思想に絡めながら、批評そのものが対話であり自己表出となる。高村・吉本・鹿島の重ね合わせが輻輳していく過程は、3重奏にも似て一つの文学の形式になっているように思う。

渋江抽斎を書いた鴎外は、きっと「吾輩は猫である」の漱石を愛していたに違いない。表向きは対照的でも、奇天烈な面々が出没する知識人家庭の日常は奇妙に通底している。「抽斎」を読んでいる間中、私の内部では抽斎・鴎外・漱石が重なり合ってこだましていた。・・・小説しかり。

ナタリア・ギンスブルグの「ある家族の会話」を須賀敦子さんが訳出しようと決めたとき、個性豊かな家族に深く共感したのだろう。中でも頑固なナタリアの父と、「渋江抽斎」を勧めた須賀さんの父上。須賀敦子さんが訳したのでなかったら、私も手に取らなかったかもしれない・・・翻訳しかり。自己表出が控えられているにせよにじみ出てくるものがある。そうした重ね合わせが、自らの内部と呼応するときが本を読むよろこび。無口であったわが父親を思い出しながら。

本を整理していたら同じ本が3冊出てきた。吉本の「擬制の終焉」。寺本のと、私のと、父のと。1968年はそういう時代だった。
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安部宏「ワイングラス」で生じた干渉

そして翻って、ものの世界でも、自分の内部と共振する何かをみつけると、凍り付いて、そしておずおずと手をのばしたくなる。ほとんど触覚。それが会話。(礼)
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白井晟一「阿難」
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父の蔵書に自分のと同じものを見つけた

読書日記

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by trmt-ken | 2018-02-03 18:15 | 読書日記 | Comments(0)
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