懐かしい建築・新しい建築 モダニズム建築の現在-2
モダニズム建築の現在-2
懐かしい建築・新しい建築

■はじめに
 数年前の本誌(1999年・島根県建築士会々報)に、「モダニズム建築の現在-美しい街は可能か」という文章を書きました。最近の現代建築が細い迷路に入り込んでいる様な気がして、その実態を明らかにしたいと考えました。現代建築の大きな弱点の1つが「美しい街なみをつくれなかった」というところに現われていると感じたからです。編集部から、その続編を書く許可をいただいたので、今後数回にわたって「現代(モダニズム)建築の現在」について論じてみたいと思います。
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古い蔵を改修した店舗(米子市)


■「懐かしさ」ということ

近年、古民家や伝統的な集落の価値が見直され、様々な動きが活発になっている。古い民家の改修や移築を行ない店舗やレストランなどへの再利用、重要伝統的建造物群保存地区指定や、街なみ環境整備事業、景観法の活用などによる集落ごとの保全活動など、ブームと呼んでもよいほどの盛り上がり方である。
 高度成長期の大量生産・大量消費の時代から、右肩下がりの時代への移行、地球環境の持続性への危機感などに裏うちされたこの流れは、今後も益々広まっていくと思われる。
 前稿の「都市デザイン派、復古派、苦悩派、無関心派」という分類によれば、復古派の展開ということになるが、その基本には建築の“懐かしさ”に対する共感や信頼感があるようだ。新建材や機械力に頼った20世紀後半の現代建築に対する違和感や反省から、石・土・木・紙など自然系の素材や、人間の手仕事に支えられた建築の再評価である。
現代建築の冷たさやよそよそしさにはもう耐えられない・・ということなのかも知れない。
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江戸期の古民家の改修(大東町)


■藤森さんの仕事  

 建築の“懐かしさ”や“懐かしい建築”といえば藤森照信さんである。タンポポハウスやニラハウス・・・と続く一連の作品からは「モダニズム建築」に対する批判精神が「これでもか」というほど強烈に伝わってくる。
 もともと藤森さんは建築史の研究者であり評論家である。しかし、藤森さんは建築の設計が大好きでどうしても設計をやりたかった。藤森さんは多くの建築を研究してきたので、普通の人なら批評眼が肥えてしまって、自分の稚拙な作品などとても作る気にはならないし、他人には見せられないと考えるところだ。そこからが藤森さんの偉いところである。「赤派と白派」という理論武装とともに、縄文建築団などという怪しげなチームの活動など入念な舞台装置をたずさえて、作家として世に登場してしまった。恥じらいと自信の両方に支えられて、“堂々と”登場してしまった。拍手喝采である。
 「見たことがないのに懐かしさを感じる建築」という意識が藤森さんの仕事の根っこにあり、「新しくもあり懐かしくもある」という建築の本質にせまる仕事振りである。
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タンポポハウス・木の上の茶室(藤森照信)


■「新しさ」ということ
 新しい建築といえば妹島和世さんである。再春館など若い頃(?)のものから近年のものに至るまで、妹島さんの目指す建築は、「確かに建築ではあるが、決してタテモノではない」というものの様である。「タテモノではなくフンワリした衣類の様な、またシンプルな家具のような雰囲気のものであるが、空間が存在するので、きっとこれは建築に違いない」といった類のものである。
 過去の建築(妹島さんについて語るとついこんな言い方をしてしまうのだが)は、全てタテモノであった。古代から中世、近世・・・と歴史を眺めて見た時、「やっぱりこれらは全てタテモノだなぁ・・・」とため息が出るくらい妹島さんは新しい。

 新しい建築は魅力的であり、新しさを目指すことは本質的な行為の一つである。クラシック建築の大家も、コルビュジェも重源も過去の建築にはあき足らず、次のステップの新しい建築を求めたし、世の人々の共感も得た。この様に建築を志す者が“新しさ”を求めることには道理がある。
しかし、「建築の新しさ」には、実は大きな落し穴があったのではないか。もう少し限定して言えば、「20世紀後半の、建築の新しさへの志向にはとても大きな勘違いや落し穴があった」ということになりそうだ。
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妹島和世


 オリジナリティという言葉がある。
私達が学生のころ、「建築のオリジナリティ」という概念が大切にされ、マネをするという事は何か恥ずかしい事と考えられていた。「今は学生だから、いろいろマネぶとしても、いつかは独創的(!)な建築をつくりたい」と多くの若者達は考えていた。当時の建築界のリーダーは、コルビュジェ、ミース、ライトの弟子の世代であった。彼らは「建築のオリジナリティ」という概念を大切に思っていたが、多くの建築家は「オリジナリティ」にしばられ迷走した。  
勿論、村野藤吾や白井晟一などはみ出す人達もいたし、オリジナリティにこだわりながら立派な建築を設計する人達がいたことも事実ではあるが・・・。しかも時代は高度成長期である。建築技術の進歩を背景にして、日本中に(いや世界中にといってもよい)独創的(!)で、個性豊か(!)な建築が大量に出現してしまったことになる。
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独創的!で個性豊かな!現代建築


 この様にして、20世紀後半の建築の混乱には多くの設計者(建築家)が主体的に関わったのである。

■変わるものと変わらないもの
 建築の「懐かしさ」と「新しさ」について、また現代建築の混乱について思い切って断定してみたのは、この様な吟味の中から何かがはっきり見えてくるのではないかと思ったからである。ここまで文章を書いてみて、それは建築のなかで「変わるべきもの」と「変わってはならないもの」を仕分けてみたいと思ったからではないかと気がついた。
 20世紀後半の約50年間、変わってはならないものまで変えよう・・・として新しさが自己目的化されたのではないか。「建築家の自己表現」などという言葉に代表されるように、新しいことや独創性のみが大切であるという「勘違い」や「落し穴」に陥ったのではないだろうか。例えば、古い街並みや美しい自然環境の中では、特にきわだつ建築や、独創的な建築を目指す必要はなかった。古い街並みや美しい自然環境、建築の利用者こそが主役であり、それらを大切にすることの中から、おのずとほのかに浮かび上がってくるものこそが作者の個性であり、独創性と呼ばれるべきものだったのではないのか。
 人間の生活空間にとって本質的に大事なものは、50年や100年程度の技術の進歩や社会の変化など表層の出来事には左右されないものではないのか。建築の価値とは、ずっとずっと深いところで人間と結びついているはずである。
その様な反省から、近年になってあらためて古い建築や建築の懐かしさが大きく見直されている・・・ということではないかと思われる。
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パンテオン


私達には、「変わらないもの」に対する注意深い視線が求められているようだ
(和)

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by trmt-ken | 2016-06-07 18:47 | 現代建築の現在 | Comments(0)
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