新谷正法を悼む
横浜国立大学建築学科同期・新谷 正法の遺体が羽田に到着した。
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大学を卒業して以来、一度も出会っていない。何年か前、石油プラント大手・株式会社 日揮の副社長に就任したことを友人から聞いていた。株式会社 日揮でどのように仕事をしていたのか…はここ数日の報道で知るばかりである。学生時代、彼は小説を書いていた。親しいわけではなかったが、「もうしばらくは小説を書く。建築はそのあとでやる。」と言っていたことを思い出す。

ここ数年では

  • 大竹 寿之(株式会社 日本設計 副社長)
  • 小宮 和一(商店街コンサルタント事務所主宰)
  • 田中 淡(中国建築史研究者・京都大学教授)
に続き4人目になる。皆、その道を懸命に歩いていたことを私たちは知っている。私たちはいわゆる全共闘世代である。大学4年目のとき、全国的な波の中に「入るしかない」と決意して入り、そしてもろくも地にまみれた。その時の一人一人の状況は異なるが、「重いもの」を背負ったのは皆同じであったろうと思う。

大竹 寿之とはなぜか気が合った。福島 節男と3人共同の卒業研究「横浜・山手地区の景観構成についての考察」を思い出す。あのころの、22・3歳の研究としては上出来であった…、と今でも誇りにしている。大所帯になった株式会社 日本設計の、デザイン意識の良心として、副社長に就任することになったのだろうと推測していた。

1年先輩である小宮 和一は、苦戦している商店街の立て直しに全国を奔走していた。松江に私が居を移してから深く付き合うようになった。松江やその近郊の商店街の再生にかかわらざるを得なくなり、小宮の応援が必要になった。私の頼みに、ことごとく、見事に応えてくれた。

田中 淡は出席簿がタ・テと続くので、1年のとき物理実験が同じ組であった。ひょうひょうとして、物静かであったことを覚えている。京都大学で中国建築史の教授をしている、とうわさで聞いていた。落語が好きだったそうだ。同僚達のブログを読み、中国建築史研究の日本の第一人者であったことを知った。

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by trmt-ken | 2013-01-26 17:25 | 現代建築の現在 | Comments(0)
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